
不妊治療のために退職すべきか——この問いに正解はありませんが、判断を誤ると治療費の捻出が困難になり、治療継続自体が脅かされるリスクがあります。厚生労働省の2022年度調査によると、不妊治療を経験した女性のうち約16%が「仕事を辞めた」と回答しており、退職は決して珍しい選択ではありません。一方で、退職後に経済的な不安が増してかえってストレスが悪化したという声も多く報告されています。
この記事では、退職を判断する5つの基準、退職後の雇用保険・傷病手当金の活用法、そして退職以外の選択肢を具体的な数値と手順で解説します。
この記事のポイント
- 不妊治療による退職者は約16%。退職前に「経済的ランウェイ」の計算が必須
- 退職後でも雇用保険(基本手当)や傷病手当金を活用できる条件がある
- まず試すべきは「不妊治療休暇制度」「時短・在宅勤務」などの両立支援制度
不妊治療で退職を選ぶ人はどれくらいいるか
厚生労働省「不妊治療と仕事の両立サポートハンドブック(2022年)」によると、不妊治療を経験した女性の約16%が仕事を辞めたと報告されています。また、両立できていない・困難だと感じた割合は35%に達しており、職場環境が治療継続に大きく影響することが示されています。
退職の主な理由として挙げられるのは以下の3点です。
- 通院スケジュールの予測不能性:採卵周期の体外受精では月10〜15回程度の通院が発生することがあり、有給休暇だけでは対応しきれない
- 身体的・精神的な疲弊:ホルモン剤の副作用(倦怠感・頭痛・情緒不安定)が仕事のパフォーマンスを低下させる
- 職場への開示が難しい:不妊治療を周囲に伝えられず、突発的な早退・欠勤の説明に苦慮する
退職は治療に専念できるという利点がある反面、後述する経済的リスクを正確に把握してから決断することが求められます。
退職を判断する5つの基準|チェックリストで整理する
退職を検討する前に、以下の5項目を確認してください。3つ以上に該当する場合は「両立継続の余地あり」、5つすべて該当する場合は「退職の合理的理由あり」と判断できます。
判断基準 | 具体的な目安 | 確認 |
|---|---|---|
1. 通院回数が有給休暇を超えている | 体外受精1周期で必要な通院日数が年間有給日数(平均10日)を超過 | □ |
2. 職場に不妊治療休暇制度がない | 会社独自の特別休暇・時短・在宅制度が一切存在しない | □ |
3. 経済的ランウェイが18ヶ月以上ある | 退職後の貯蓄÷月間生活費(治療費含む)が18ヶ月分以上 | □ |
4. ストレスが治療結果に影響している | 担当医から「精神的負荷の軽減」を推奨されている | □ |
5. パートナーの収入で生活費+治療費を賄える | 世帯収入から月間治療費(平均3〜10万円)を引いて黒字になる | □ |
「経済的ランウェイ」の計算方法
退職前に必ず試算すべきなのが「何ヶ月間、治療を継続できるか」です。計算式は以下のとおりです。
経済的ランウェイ(月数)= 退職時の貯蓄額 ÷(月間生活費 + 月間治療費見込み)
体外受精の場合、1周期あたりの費用は保険適用で3〜5万円(採卵+移植の窓口負担)、保険適用外の先進医療・自由診療を含めると15〜60万円に達するケースもあります。ランウェイが12ヶ月未満の場合、治療が長期化したときに資金が底をつく可能性があり、退職よりも「育児介護休業法に基づく両立支援制度の活用」を先に検討することが推奨されます。
なぜ退職は経済的リスクが高いのか
退職によって失われるのは給与だけではありません。社会保険・健康保険の切り替え、各種手当の受給資格喪失など、月単位で数万円の追加負担が発生します。主なリスクを整理します。
健康保険の切り替えと治療費負担増
会社の健康保険から退職すると、以下の2択を迫られます。
- 国民健康保険への加入:前年所得に基づいた保険料。年収400万円だった場合、年間保険料は30〜40万円程度になるケースがある(市区町村によって異なる)
- 任意継続被保険者(2年間):退職前の保険料の2倍(自己負担分+会社負担分)を全額自己負担。月2〜4万円程度が目安
不妊治療は健康保険の給付対象(2022年4月以降、人工授精・体外受精が保険適用)のため、健康保険の継続は治療費軽減に直結します。任意継続被保険者を選択した場合、退職後2年間は同一保険者の給付を受け続けられる点でメリットがあります。
厚生年金から国民年金への切り替え
退職後は厚生年金から国民年金(第1号被保険者)に切り替わります。2026年度の国民年金保険料は月額1万6,980円。配偶者の扶養(第3号被保険者)に入る場合は保険料の自己負担がなくなりますが、将来の年金受給額は減少します。
収入ゼロ期間の家計シミュレーション
費目 | 退職前(月額) | 退職後(月額) |
|---|---|---|
手取り収入(例:年収350万円の場合) | 約23万円 | 0円(または雇用保険給付のみ) |
健康保険料 | 約1.5万円(会社折半) | 約3万円(任意継続) |
年金保険料 | 約1.8万円(会社折半) | 1.7万円(国民年金)または0円(第3号) |
体外受精1周期費用(保険適用) | 3〜5万円 | 3〜5万円(変わらず) |
退職後に使える給付制度|雇用保険と傷病手当金の活用法
競合記事の多くは「退職すると収入がなくなる」で止まっていますが、条件を満たせば雇用保険(基本手当)や傷病手当金を受給しながら治療を継続できます。受給条件と金額を具体的に解説します。
雇用保険(基本手当)
退職後に求職活動を行う意思がある場合、雇用保険の基本手当を受給できます。受給要件と給付額の目安は以下のとおりです。
- 受給要件:退職前2年間に被保険者期間が通算12ヶ月以上(会社都合退職の場合は6ヶ月以上)
- 給付日数:自己都合退職の場合、被保険者期間10年未満は90日間、10〜20年は120日間
- 給付額:離職前6ヶ月の賃金日額の50〜80%(年収350万円の場合、日額約5,000〜6,000円、月額換算で15〜18万円)
- 注意点:自己都合退職は7日間の待機期間+原則2ヶ月の給付制限がある(2025年10月改正で制限期間が短縮される場合あり)
不妊治療中でも「就職する意思がある」状態であれば受給可能です。ただし、採卵・移植の入院・安静が必要な時期に「求職活動中」と申告することに矛盾が生じる場合があるため、担当医の診断書を活用して受給期間の延長(最大4年)を申請することも選択肢になります。
傷病手当金(在職中の申請も可)
傷病手当金は、在職中に治療・療養により4日以上連続して業務に就けない状態が続いた場合に、健康保険から支給される給付です。
- 支給額:標準報酬日額の3分の2(月収30万円の場合、日額6,667円、月額換算で約20万円)
- 支給期間:最大1年6ヶ月(2022年1月改正で通算化)
- 申請の流れ:担当医の意見書→勤務先の証明→健康保険組合への提出
体外受精の採卵前後や移植後の安静期間(2〜5日程度)は、傷病手当金の対象になる可能性があります。退職を決める前に、担当医に「業務不能証明が取れるか」を確認することが重要です。在職中に傷病手当金を受給し始めた場合、退職後も継続受給できる場合があります。
退職以外の選択肢|制度・交渉・転職の3ステップ
退職を最終手段と捉えるなら、まず以下の3ステップを検討してください。既存の制度を使い切ることで、多くのケースで「治療と仕事の両立」が可能になります。
ステップ1:社内制度の確認と活用
2023年以降、従業員101人以上の企業に不妊治療支援措置の努力義務が課されています(次世代育成支援対策推進法の改正)。具体的には以下の制度を人事部門に確認してください。
- 不妊治療休暇:一部大企業では年間5〜10日の有給特別休暇が設けられている
- 時短勤務・フレックスタイム:朝8時や夕方17時の通院に対応しやすくなる
- テレワーク(在宅勤務):ホルモン注射後の倦怠感がある日でも業務継続が可能
- 育児介護休業法の「制度周知・休暇取得勧奨」:不妊治療は直接の対象外だが、会社に働きかけるための法的根拠として活用できる
ステップ2:主治医・産業医との連携
主治医から「業務軽減が必要」という意見書を取得することで、職場との交渉が具体的になります。産業医がいる企業では、産業医を通じて「就業制限」や「業務転換」を申請できるケースがあります。
ステップ3:治療に理解のある職場への転職
現職での両立が困難な場合、転職という選択肢もあります。厚生労働省「子育てサポート企業」(くるみん)認定や、不妊治療支援を明記した「ファミリーフレンドリー企業」への転職は、治療を継続しながら働ける環境を確保する現実的な方法です。転職活動は在職中に行うことで、雇用保険の給付制限を回避できます。
退職を決めた場合の手続きと注意点
退職を決断した場合、手続きの順序を誤ると給付金の受給漏れが発生します。退職前から始めるべき準備を時系列で確認してください。
退職前に必ず確認すること
- 傷病手当金の申請開始時期:退職前に申請を始めておくと、退職後も継続受給できる(退職後に新たな申請はできない)
- 有給休暇の完全消化:法律上、会社は有給消化を拒否できない。退職前に全日消化する交渉を行う
- 社会保険の継続可否の確認:任意継続被保険者の申請期限は退職日翌日から20日以内(この期限は厳守)
- 退職証明書の取得:雇用保険の申請時に必要。会社に発行を依頼する
退職後1ヶ月以内にすること
- 健康保険の切り替え手続き(任意継続または国民健康保険)— 退職日翌日から14日以内
- 国民年金の第1号被保険者への切り替え — 市区町村の窓口へ
- ハローワークへの失業給付申請(求職中の場合)
- 住民税の支払い方法確認 — 退職年度分は一括徴収または納付書払いへ切り替わる
退職決断が精神的に及ぼす影響|後悔を防ぐために知っておくこと
退職そのものが不妊治療の成績に影響するというエビデンスは現時点では確立されていません。ただし、2022年に発表されたSystematic Review(Oxford, Human Reproduction誌)では、高いジョブストレスが体外受精の妊娠率に負の相関を持つ可能性が示されており、精神的なストレス軽減は間接的に治療環境を整える意義があると考えられています。
一方で、「退職すれば気持ちが楽になる」と思って辞めたが、社会との接点が減り孤立感が強まったという報告もNPO法人Fineの調査(2018年)に見られます。退職後の生活設計として、以下を考慮することが推奨されます。
- 社会的つながりの維持:治療仲間のコミュニティ(NPO法人Fine、Fam-Linkなど)への参加
- パートナーとの役割分担の明確化:家計・治療スケジュール・家事の分担を書面で合意する
- 治療終了の判断基準を事前に設定する:「何歳まで」「何回まで」というボーダーラインをあらかじめ話し合っておく
退職判断の前に必ず試してほしいこと
不妊治療のための退職は、通院困難・職場環境・経済的余裕の3つが揃ったときに初めて合理的な選択肢になります。次の手順で検討を進めることが推奨されます。
- まず在職中の制度(不妊治療休暇・フレックス・テレワーク)を人事部門に確認する
- 傷病手当金の対象になるか、担当医に意見書を依頼できるか確認する
- 経済的ランウェイを計算し、18ヶ月以上あることを確認する
- それでも両立が困難な場合は、退職後の給付制度(雇用保険・任意継続)の準備を整えてから退職日を設定する
よくある質問
Q. 不妊治療を理由に退職すると、雇用保険の「特定理由離職者」になれますか?
A. 不妊治療は現時点では特定理由離職者(給付制限なし)の対象外とされるケースがほとんどです。ただし、医師が「療養のため就業困難」と判断した場合は、傷病手当金や雇用保険の受給期間延長申請と組み合わせることで、実質的な給付制限を回避できる可能性があります。ハローワークに事前相談することを強く推奨します。
Q. 退職してから転職活動を始めると、次の職場の健康保険への加入まで空白期間が生じますか?
A. 転職先での健康保険加入は入社日からです。前職退職日と転職先入社日の間に空白がある場合は、任意継続か国民健康保険への加入が必要です。空白期間中の受診は全額自己負担にならないよう、切れ目なく加入することが重要です。
Q. 体外受精の通院は週何回くらいになりますか?
A. 採卵周期(刺激期)では、卵胞の発育確認のため2〜3日おきの通院が2〜3週間続くことがあります。移植周期は排卵確認・内膜確認で月3〜5回程度が目安です。クリニックによって朝の診察のみ対応している施設もあるため、勤務形態に合わせたクリニック選択も重要です。
Q. 不妊治療中にパートタイムや派遣で働く選択肢はありますか?
A. 治療スケジュールに合わせやすいという理由で、週3〜4日のパートタイムや時間固定の派遣に切り替える人は一定数います。ただし、1週間20時間以上・31日以上の雇用見込みがあれば雇用保険の加入義務があり、次回の失業給付の受給資格に影響します。雇用形態の変更前に社会保険労務士や年金事務所へ相談することが推奨されます。
Q. 退職後、夫の扶養に入ると不妊治療費の負担はどう変わりますか?
A. 夫の健康保険の被扶養者になると、自分の保険料の自己負担はゼロになります。不妊治療の保険適用分は被扶養者でも3割負担で受診できます。ただし、配偶者特別控除の適用条件(年収130万円未満)に注意が必要です。扶養に入る手続きは退職後5日以内に事業主(夫の会社)経由で行います。
Q. 不妊治療を理由に退職したことを次の就職面接で話す必要がありますか?
A. 法律上、面接で退職理由を開示する義務はありません。「治療に専念するための休養期間を設けた」という説明は、採用担当者への伝え方として一般的です。ただし、子どもができた場合の就労継続意思については聞かれることがあり、回答方針を事前に考えておくことが推奨されます。
Q. 高額療養費制度は退職後も使えますか?
A. 高額療養費制度は健康保険の加入者であれば使用できます。退職後に任意継続被保険者または国民健康保険に加入していれば引き続き適用対象です。一般的な所得区分では月の窓口負担が87,430円を超えた分が還付されます(2024年度基準)。事前に「限度額適用認定証」を取得しておくと、窓口での支払いを上限額に抑えられます。
Q. 退職を決める前に相談できる専門家はいますか?
A. 以下の専門窓口への相談が推奨されます:①ハローワーク(雇用保険・給付制限の確認)、②年金事務所(社会保険・扶養の切り替え)、③社会保険労務士(退職手続き全般)、④NPO法人Fine(不妊治療経験者のピアサポート)。複数機関を並行して利用することで、給付漏れを防げます。
まとめ
不妊治療のための退職は「経済的ランウェイの確保」「雇用保険・傷病手当金の活用」「退職前の手続き順序」の3点を押さえることで、治療継続のリスクを最小化できます。退職は最終手段——まず社内制度の確認と傷病手当金の申請可否を担当医に確認してから判断することが、後悔しない選択につながります。
経済的・法律的な疑問はハローワークや社会保険労務士に相談してください。精神的なサポートについては、不妊治療専門のカウンセリング(日本不妊カウンセリング学会認定カウンセラー)の活用も選択肢になります。
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治療を続けながら仕事との両立を模索しているなら、まずクリニックのソーシャルワーカーまたは看護師に「通院スケジュールの調整が可能か」を相談するところから始めてください。多くのクリニックでは、勤務先との連携を前提にした通院プランを提案しています。
参考文献
- 厚生労働省「不妊治療と仕事の両立サポートハンドブック」(2022年)
- 日本生殖医学会「生殖医療ガイドライン2021」
- NPO法人Fine「不妊に関するアンケート2018」
- Matthiesen SM et al. "Stress, Distress and Outcome of Assisted Reproductive Technology (ART): A Meta-Analysis." Human Reproduction, Oxford, 2011.
- 厚生労働省「令和4年度 雇用均等基本調査」
- 健康保険法 第99条(傷病手当金)・雇用保険法 第13条(基本手当受給要件)
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※本記事は情報提供を目的としたものであり、特定の治療法を推奨するものではありません。症状や治療については、必ず担当医にご相談ください。
この記事を書いた人
EggLink編集部
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